Category
Archive
ナポリ、カルタゴ、チェンマイ
ナポリ、カルタゴ、チェンマイ
ナポリ、カルタゴ、チェンマイという語に何か共通項を感じることができるだろうか?世界旅行の目的地?食べ物?
ナポリ。一昔前パスタといえば、スパゲッティであり、スパゲッティといえばミートソースかナポリタンに決まっていた時代があった。
今でも日本の喫茶店 (最近、死語になりつつある)か洋食屋で上記2つのスパゲッティを堪能することはできる。
そういうわけで私たち日本人にはイタリアのナポリという都市名には馴染みがある。「私たち日本人には」と記したのは、ナポリタンという食べ物は日本にしかないからである。このあたりの事情はGoogle先生に聞いてみよう。
さて、ピントをナポリに合わせよう。「ナポリ」という語は、ギリシャ語の「ネオ・ポリス」=「新しい都市」が語源で、それをラテン語で「Neapolis 」と表記して、その後、イタリア語で「Napoli」と綴るよいになったと考えられる。
「カルタゴ」は、世界史、特にローマ史などが好きな人には、ピンとくる名前ではあるが、一般には無名であろう。現在のチェニジア共和国の北側に位置していた。
古代において地中海の覇権をローマとカルタゴで争った戦争がポエニ戦争である。「ポエニ」はラテン語で「フェニキア人」を意味する。カルタゴはフェニキア人の国家であった。
このフェニキア人の用いていたフェニキア文字からギリシャ文字が生まれ、さらにそこから私たちが毎日使っているローマ文字が誕生する。
したがってローマ文字が読める人は、もう一踏ん張りでギリシャ文字も読めるようになる。「アルファベット」という名称は、ギリシャ語の最初の文字「アルファ」と「ベータ」に由来する。
ポエニ戦争といえば、泣く子も黙るハンニバルの名に触れずにはおけない。ただ、横道に逸れすぎること確実なので深入りはせず、このハンニバルという名は恐怖の代名詞のようなもので、あの『羊たちの沈黙』においてもその名は効果的に響くという確認に留めよう。
言語的には「カルタゴ」は、フェニキア語の「カルト(都市)・ハダシュト(新しい)」=「新しい都市」が語源であるらしい。
フェニキア語はセム系言語なので、ヘブライ語やアラビア語と比較すると分かりやすいかもしれない。ヘブライ語では「qeret(都市)・hadas(新しい)」、アラビア語では「karya(村)・hadit(新しい)。
最後に少し、「チェンマイ」を見てみよう。タイの北部の観光地である「チェンマイ」の語源分析は「チェン・マイ」で、「新しい町」を意味するらしい。「チェン」というタイ語はよく分からないが、「マイ」は今でも普通に「新しい」の意味で使う。
タイ語で「新年おめでとう」は「サワディーピーマイ」と言う。「サワディー」は「こんにちは!」の意味で、一度でもタイに行ったことがあれば誰でも知っている挨拶である。「ピー」は「年」。タイ語では修飾語は、修飾される語の後ろに来るので「ピーマイ」で「新年」となる。
ということで、ナポリ、カルタゴ、チェンマイという3つの語は、大体「新しい都市」という意味的な構成を持つ単語なのであった。
犠牲とは何か?
犠牲とは何か?
たとえば「犠牲」という漢字を凝視すると、そこには牛や羊がいることが見て取れ、なるほど古代の中国においては牛や羊が犠牲獣として神に捧げられていたのだなという大雑把な推測が成り立つ。
古代のギリシアやローマでも同様に「牛」や「羊」のような生きた動物が神に捧げられていた。神話・伝説によれば、時には生きている人間も。人身御供。
古代ギリシアのアテーナイは、その昔、クレタ島のミノス王に牛耳られていた。ミノス王の妻は怪物ミノタウロスを産んでおり、これは迷宮に閉じ込められていて、毎年、アテーナイから七人の少年と七人の少女がミノタウロスに生贄として捧げられていた。
この現状を打破するためアテーナイのアイゲウス王の息子テーセウスは怪物退治に乗り出す。そこにミノス王の娘アリアドネが助け舟を出す。彼女はテーセウスに恋してしまい、怪物退治の後に一緒にアテーナイに逃げたいと言う。そこで彼にミノタウロスを殺すための剣と迷宮からの脱出のための糸を手渡す。…..
続きは「ギリシア・ローマ神話」を読んでみよう。
さて、私たちの牛と羊に戻ろう。「犠牲」という漢字から牛と羊という特定の動物を推論したのだった。神話や伝説の情報から当て水量すると、古代においては、動物ではなく人間が生贄として宗教的に捧げられていた可能性があるということも見た。
神に捧げるものとして、英語ではvictimとofferingがある。victimは「犠牲」、「生贄」であり、これはラテン語のvictima 「犠牲獣」が語源である。
一方のofferingは、「供物」であり、それは「農作物」であったり、「お酒」であったり、「花」であったりする。
「犠牲、生贄」を意味するsacrificeという英単語もあるが、これは語源分析的には、「聖なる行い」を意味する。
供儀として捧げられるものは、時代とともに変化していて、より軟弱傾向にあると言えるであろう。
人間→牛や羊→農作物、お酒
現代では私たちは「お花」をお供えものとして捧げている。さらに「祈り」や「念仏」などの「言葉」を捧げるというのは、かなり最近のことなのではないだろうか?
人間→牛や羊→農作物、お酒→お花→言葉(お祈り、念仏)
捧げ物の最終段階である「言葉」は、かつては「神聖なもの」であったけれど、最近では言葉は単なる道具であるなどと扱われて虐げられている。しかしながら私たちは気をつけなければならない。
フランスの詩人ジャン・コクトーはかつてこんなことを言っていた。「言葉は魂の乗り物である」と。
心のこもっていない言葉は、相手に直ぐにそれと分かってしまう。私たちが日々テレビで目にする「死んだ魚の目をした腹話術の人形」のような人が話す言葉を聞けば、そこにはもはや人間が入っていないことは残念ながら誰もが感じてしまう。
debug(語学学習について)
debug(語学の学習について)
同じ本を何度も読むことに意味はあるのだろうか、と問う人がいる。本は一定している。それは物体としてそこにそのままあり、活字は動き出したりせず、数年前のままそこに鎮座ましましている。しかし人は同じようでいてそうではない。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」のように人は毎日同じ顔と同じ体があるように見えはするけれど、毎日変化し続けている。日々アップグレードを続けている。生活の上での「誤り」を見つけて小さな修正を加えてよりよく生きようとする。
当初はもちろんコンピュータ用語であったけれど、このような現象を英語でdebugと表現している心理学系の本をどこかで最近読んだ。
人間は同じ間違えを繰り返すものだ。それは頑固な油汚れのように頭にこびりついて離れない粘着質の性質を有する。
したがって、人は自然なこととして、語学学習でも余程の注意力と自分を正す力がなければ見事に同じ間違えを繰り返す。私たちはこれをケアレスミスと言って自分の擁護に走るものだ。
実際に、学生の人たちに英語の試験問題を解いてもらい、まるばつをつけてもらう。間違えの解説をして本人も分かったと言う。3日後に同じ問題を解いてもらうと冗談のように同じ箇所を同じように間違えるという現象を何度も見てきた。これが誤謬の粘着性である。こびりついた油汚れ。
この執念深い間違え傾向を修復していくには常に自分の頭を思い込みのない状態に保つ必要がある。しかしながら、これが難しい。なぜなら人間の頭はほとんど思い込みでできているからである。
思い込みは習慣によって形成される。一度染み付いてしまった習慣を直すのは難しい。人間は同じことを繰り返す。経路依存性(この言葉は経済学用語から始まり心理学の分野で応用されている)。
何が正しいのかということに関してはそれ自体議論を要する問題ではあるけれど、少なくとも正しさに憧れる傾向が人間にはある。
「誤謬」を頭の中の「バグ」と捉えて、日々、debug(バグを取り除く:誤りを見つけて修正する)のアップグレードをすることが私たちに必要なことである。
そういうわけで、数年前に読んだ本を今もう一度読んでみると、何やら本のテイストが変わっているのである。本は同じである。そこには少しだけ進化した自分がいる。
同様に、同じ語学の問題集などを繰り返し学習することには意味がある。
昨日より0.1ミリでも良くなっていればそれで良い。多くを望まないことが大切である。
ハワイアン・ピジン英語
ハワイアン・ピジン英語
英単語 foot(足)の複数形は feetである。
foot → feet (複数形)
同様に以下の英単語の複数形を確認してみよう。
tooth(歯)→teeth
goose (ガチョウ)→geese
問1 book(本)の複数形は?
英語の知識がゼロの人を対象にして、純粋に言語的な類推の力を試すのであれば、解答は以下のようになるであろう。
問1 beek ??
残念ながら、現実には、誰もが知っているようにそうはならない。
英語は唯一無二の法則が文法を牛耳っているのではなく、様々な理由であらゆる文法システムが混在しているからである。
この文法法則の混在が英語をより魅力的なものにしていると言えなくもないが、「より多くの人がより簡単に話す」という観点からはより単純なシステムが望ましい。
ハワイアン•ピジン英語では、この現代英語の複雑怪奇さを、よりシンプルな文法システムを採用することによって言語を再構成させることに成功している。
ハワイの人々のことやハワイ料理などで「ロコ」という言葉を私たちは耳にすることがあるけれど、英単語のlocal(地元の)がハワイアン・ピジン英語のlocoの正体のようである。
私立中学の英語の教科書として最も多く使用されている New Treasure にハワイアン・ピジン英語に関する興味深い記述があった。文法の単純法則の一例を眺めてみよう。
ハワイアン・ピジンの過去形の作り方
通常の英語では私たちは不規則変化動詞をgo – went、eat – ateのように記憶しなければならないけれど、ハワイアン・ピジンでは動詞の前に wen という過去形を表す語を置くだけで過去形を表現することができてしまう。
I ate.
→ I wen eat. (私は食べた。)
※このwenは、goの過去形のwent を「過去の象徴」として使っているのかもしれない。その際、スペルにおいて、あまり聞こえない後末の tを省略していると推測される(竜崎:注)。
数百年後の「現代英語」は、このような文法の単純システムが主流になっているかもしれない。日本の中学1年生を悩ます「3単現のs」も消失しているであろう。世界の主流になりえる言語は必然的に単純な法則が求められる運命にある。
英語とタイ語の「見る」「見える」
英語とタイ語の「見る」「見える」
英語の動詞 lookを、はじめて学習する場合には、その意味は「〜を見る」と習う場合が多いでしょう。
Look at that dog.
あの犬を見て。
ところがしばらくすると、次のような英文に遭遇します。
She looks tired.
彼女は疲れているように見える。
多くの人が、何も不思議に思わずに、この2つの英文を受け入れているように思えます。
しかしながら、よく考えると、この lookには、かなり面白い性質が見えてきます。
She looks 〜
このように英文を書き始めるとき、この段階では、「彼女が何かを見る」のか、「彼女は誰かに〜だと見られている」のかは不明です。
She looks at 〜
looks の後ろにatを付け加えた瞬間に、主語である彼女が「何かを見る」ことが確定します。
She looks tired.
一方、looksの後ろに「形容詞」を添えると、「彼女は、誰かに見られていて、状態を外部から判断されている」表現になります。
タイ語の動詞 duu(見る、見える)も同様な性質を帯びています。
duu naag (ドゥーナンg)
映画を観る
duu mo:h ho:h(ドゥーモーホー)
怒ってるように見える
英語とタイ語では、言語の体系も随分異なりますが、時に同じような現象を見出すことができるのは驚きです。
動詞の能動態と中間態という現象とも関連しているように思えます。それについては、以前、書きましたので、興味のある方は、「英語における中間態的現象について」で検索してみてください。