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妖怪と言語(もやもやの言語化)
妖怪と言語(もやもやの言語化)
夏といえば「お化け」と相場が決まっていて、かの稲川淳二は、かれこれ2、30年もの間、ホールにて怪談語りを行なっている。聴きに行こうと思っていたら既にsold
out。
テクノロジーがいくら進歩してもこの世から「お化け」は消えないであろう。これには私たちの心の奥底に潜む本能的、原始的な、形のない恐怖心が関連している。
訳もなくやって来る恐怖というものがあって、時に私たちを苦しめる。この「もやもや」を言語化できるならば、それに明確な名称や理由を付加し、分析し、視覚化し、客体化することでその恐怖に打ち勝つこともできるかもしれない。
恐怖心の一部の視覚化が「妖怪」であり、これには水木しげるが一役買っている、というより「妖怪」に形を与えたのは実は水木しげるだと言える。
『ゲゲゲの鬼太郎』が最も有名な水木作品であり、何度もテレビ・アニメ化(6回)している。その登場人物の中でも常に人気があるのが「猫娘」である。
毎度アニメ化される度に「猫娘」のキャラに賛否両論の議論が沸き起こる。どうも自分が子供の時に見た「最初の猫娘」が基準であり、それ以外のキャラを排除したい気持ちが人々を突き動かすのであろう。
八頭身の萌えキャラ「猫娘」もいる。これに怒る人が多いようである。しかしながら、初代「猫娘」はかなり可愛い感じである。
実は『ゲゲゲの鬼太郎』の前に『墓場鬼太郎』という漫画がある。さらにこの源流には紙芝居版の『ハカバキタロー』がある。
さて『墓場鬼太郎』の中に描かれている「猫娘」は八頭身の美しい少女である。歌も上手くアイドル的存在で、コンサートなども行う。
そうではあるが「妖怪」だから、ネズミを見るとその本性が剥き出しになり、なりふり構わず、生捕にして食べてしまうのである。その時の形相は!
ある時、「猫娘」は「ねずみ男」に道で偶然すれ違う。「ねずみ男」は妖怪ではあるが本質がネズミなので、なんと「猫娘」は「ねずみ男」に瞬時に飛びかかって頭を齧ったのである。本気で襲いかかるのだからたまらない。哀れな「ねずみ男」は、その時、脳の一部を齧りとられてしまうのである。
水木しげるのすごいところは、もあっとした怪異という抽象的なものを言語化し、具体化し、キャラクター化し、エンターテイメントにまで高めた(落とした)ことである。
言葉は、物事を表現することができる。これにより私たちは、世界を切り取り、もやもやしたものに形を与え、目に見えるようにし、理解しようとする。
赤ちゃんは言葉が使えないから、もやもやした気持ちをギャーとやる。次第に言葉の使用が可能になるにつれ、語彙が増し、それに伴い「私とその他」を分離させ、さらに事柄を細分化し、自分の頭の中の整理もついてくる。
ただし語彙力の乏しい頃には、自分の頭の中の漠然とした気持ちを言語化できないでいるので、イラつく、不安になる、暴れたりもする場合がある。もちろん他の理由もあり複合的ではある。
私たちは言葉を使って、目に見えないものを客体化する。それを具体的で手に取ることができるかの如く扱うことで、不安を解消することができるかもしれない。
言葉はそれを通して世界を眺めることのできる装置のようなものであるのと同時に私たちを癒す薬のような役目も担っている。使い方次第で凶器にもなるであろう。
妖怪というのは人間の心の中で生じる不安の具体的イメージであるので、はっきり見てみたいという気持ちもあり、怖がって避ける人をも引きつけてしまう磁力があり、私たちは「怖い怖い」と言いながら半分目を開けてそっちへ吸い寄せられてしまう。
「鬼太郎」は、この世と異界を行き来して、時に私たちに世界の割れ目を見せてくれる。私たちが当たり前だと思ってるこの世界も実は一枚の薄い氷であり、その下には異次元の空間が大きな口を開けているのかもしれない。
トムヤムクンとは何か?<タイ語入門(1)
「トムヤムクン」とは何か?
<はじめての人のタイ語講座(1)>
日清食品がときどき期間限定で出しているトムヤムクンのカップヌードルが少し辛くておいしい。ただし、パクチー嫌いな人は避けた方が良いかもしれない。
タイ料理の定番といえば普通トムヤムクン、グリーンカレー、パッタイあたりであろう。その中でもトムヤムクンという単語は日本人に浸透しているように思える。
タイ語の料理名には当然、意味があり、少しタイ語の造語システムを理解するだけでも料理の注文に幅を広げることができる。今回は「トムヤムクン」を分析しながらタイ語を学んでみよう。
◯トムヤムクンとは何か?
先ず、トム・ヤム・クンという単語に分かれる。
トム•••煮る
ヤム•••辛く酸っぱく和える
クン•••エビ
トムヤムクン•••「エビが入っている酸っぱ辛く煮たスープ」という意味になる。
少し単語を入れ替えてみよう。日本のタイ料理屋さんではないかもしれないが、タイに行ったら「トムヤム・タレー」を注文してみよう。
「タレー」は「海」の意味で、料理の脈絡ではいわゆる「シーフード」を表し、トムヤムタレー」とすると「いろいろなシーフードが入ったトムヤム(酸っぱ辛いスープ)が出てくる。
タレー•••海;シーフード
エビが大好物という人以外は、クン(エビ)だけよりこちらタレー(シーフード色々)の方が食べていて楽しい。
さらに、クン、タレー以外に具材を変化させ語彙を増強させよう。以下、料理全体の味などは同じで具材が異なる。あのオレンジ色のスープを思い描きながら3種のバリエーションを楽しもう。
1) トムヤム・ガイ
ガイ•••鶏肉
2) トムヤム・ムー
ムー•••豚肉
3) トムヤム・プラー
プラー•••魚
さて、次にパッタイ(タイ風焼きそば)を注文してみよう。注文時に何も言わなければクン(エビ)が入っていることが多い。トムヤムクンでエビを大量に食べた後でパッタイでもエビだとかなり飽きてしまう。
パッ(ト)•••炒める
タイ•••タイ風
そんな時は「パッタイ・ガイ」と注文してみよう。鶏肉入りのパッタイ(チャーハン)が出てくる。この「ガイ」はタイでの屋台料理の定番ガイヤーン(焼き鳥)のガイに同じ単語である。
ガイ•••鶏肉
ヤーン•••焼く
ちょっとご飯ものが食べたくなったら、カオパット(チャーハン)を注文しよう。こちらも具材を選んで言ってみよう。カオパット・プーが良い。
カオ•••ご飯
パッ(ト)•••炒める
プー•••蟹
カオパット・プーは蟹チャーハンである。
この「プー」は、カレー界の頂上決戦では常にランキングトップに君臨するであろうカレー「プーパッポンカリー」の「プー」と同じ単語である。タイで注文すると、お皿に中程度のカニが甲羅ごとズドンと鎮座ましましている。
プー•••蟹
この料理はいわゆる我々が知っているカレーとは異なり、蟹と卵と野菜をカレー粉で豪快に炒めたものであり、白ごはん(カオ・スアイ)によく合う。
カオ•••ご飯
スアイ•••きれいな
最後はデザートである。驚異的なおいしさを誇るのがカオ・ニャアオ・マムアンである。
カオニャアオ•••もち米
マムアン•••マンゴー
カオニャアオマムアンは、もち米にマンゴーを乗せて、この上なく甘いシロップをかけていただくデザートである。もち米はタイのお隣のラオスでもよく出てくる。
もち米とマンゴーにシロップ!説明を聞いただけでは誰しも「そんなん要らない!」となるが、ひと口食べてみるともうこのデザートの女王の虜になっている自分に気づくのである。料理的発想は日本の「おはぎ」と同じであろう。
最後にチャーローン(お茶)が出てくるかもしれない。しかしながら、このお茶は何か甘い。砂糖が入っているのである。
チャー•••お茶
ローン•••熱い
タイのコンビニで「普通のお茶」を買うのも一苦労。green tea no sugarなどの表記をチェックしなければならない。
いろいろと違っているように思えることもあるが、それは我々の当たり前と他国の当たり前が異なるだけであり何ら問題ない(マイペンライ)。
マイペンライ•••大丈夫;問題ない
時々、海外で過ごすことが、日本をさらに良く知ることにつながることは間違いない。
私たちはstudentになれるだろうか?
私たちはstudentになれるだろうか?
4月には、studentがたくさん生まれる。少しこの言葉について考察してみよう。
英語を学習し始め、しばらくするとteachとteacherの関係性をplayとplayerなどの関係性から類推できるようになり、派生語の概念が知的に成熟する前に親戚的な感じとして捉えることができるようになる人がいる。
しかしながら、英語がかなりできる人でもwiseとwisdomやstudyとstudentの関係性に気付けない人が多い。それは派生語が作られる過程で生じるスペルの変化(見た目の印象)と音の変化(別の音)に起因する。
英語を少し学習した後で、天気の話をしていて、「曇りは英語で、なんと言うでしょうか?」と尋ねると「cloudyです。」となり、次に「では、空に浮かんでいる「雲」は英語で何というでしょうか?」という質問をすると「それはまだ習っていません。」となることが多い。
学習初期では造語システムのデータ不足でこれは当たり前のことである。
rain → rainy
snow → snowy
wind → windy
storm → stormy
fog → foggy
(
x ) → cloudy
上記のように並べて、それでも( x )を類推することができなかったら少し問題ではあるが、大抵は語形成の法則性に気付ける。
ところが、現実的な問題として大学を卒業した人でもsunとsunnyを関係のない別単語だと思っている人も少なくない。これは、発音とスペルの都合上「n 」が挿入されているからで、見た目の印象が異なるからである。
同様にwiseとwisdomを別物と思っている人も多い。
free → freedom [ free +
dom]
wise → wisdom [ wise + dom
]
wise / wisdom問題は、スペルも発音も異なるので、説明されなければ気付けないかもしれない。
同様に、studyとstudentの関係性に気付かないというケースも多発する。
study / studentは、由緒正しくラテン語のstudeo「専念する;熱心に求める」に語源がある。
study : stud-が語幹であり、この語幹に接尾辞「-y」を付けてstudyが形成されている。
student : ラテン語の動詞であるstudeoを現在分詞にすると、studens, studentis となる。現在分詞というものは形容詞であり、形容詞は名詞としても扱えるので、studentは英語でもそのまま名詞になっている。
したがって、studentとは「熱心に何かを求めて自分磨きをしている人」という意味である。
イタリア語経由にはなるけれどstudio「画家などの工房、音楽家などの仕事場」も同じ語源であることは感じ取れるであろう。
そういうわけで、私たちは一生student でなければならないということになる。ちょっと知ってるだけで威張り腐ったり傲慢になったり上から目線になったりしないようにするために。
私たちの知識などは所詮どんぐりの背比べだ。人はどんなきっかけからでも学べばそれでよい。
So keep on playing those mind games
together .
Faith in the future, outta the now.
Yes is the answer, and you know that for
sure.
語学学習の目的とcarpe diem
語学学習の目的とcarpe diem
呼吸というものが「吸う」と「吐く」から成り立っているように、読書というものは「読む」と「書く」で成り立っているように思える。同様に会話は、「聞く」と「話す」で構成されている。
「読む・書く」と「話す・聞く」は何が違うかと言えば、前者が1人の沈黙の行為であるのに対して、後者が2人の発話行為である。
したがって「読む・書く」と「話す・聞く」の2つのペアはかなり異なった行為であり、たとえば書くことが得意な作家が話すことが得意とはならない。
明治時代以降の私たち日本での語学教育は専ら「読む」ことに焦点が当てられてきた。文明開花の名の下に優れた西洋の文化を取り入れる必要があったのだろう。現在まで語学教育の基礎はずっとここに置かれている。
漢文や古文、ラテン語、古典ギリシャ語、ヘブライ語、アッカド語などの学習は「読む」が中心で然るべきだ。なぜなら「漢文」で会話する人はいないからだ。
ところが、私たちの日常語である日本語や英語などの現代語は、言語それ自体が内包する神秘性の他に、日々使用する道具という一面がある。ナイフやホーク、箸と同様に使用される必要がある。
語学学習の目的は、人それぞれであり、さらに言えば目的などなくてもよい。学習のプロセスそれ自体を楽しめれば本当はそれでよい。
世の中は結果至上主義が幅を利かせているので、プロセスの大切さを理解してもらうことは大変なのだ。誰もが結果ばかりを追っている。
しかしながら、一人の人間のスタートが誕生だとするなら、その人間の結果は死ということになる。結果ばかりを大切がる人は、人間の誕生から死までのプロセスをすっ飛ばして死にばかり目を向けていることになる。それがいかにアホなことかは誰の目にも明白であろう。
語学学習という一括りの言葉は存在するけれど、自分とその言語の関係性にもう少しピントを合わせ、自分がどうしたいのかという問いかけが必要でもある。
もちろん試験のため、という理由でも問題ないけれど、プロセスを楽しむことができれば更に良い。同じことが受験などにも言える。
合格さえすればそれで良いと思うから不正が蔓延る。金さえ儲かれば良いと思うから詐欺が横行する。全てプロセスの大切さが蔑ろにされている。
私たちは毎日毎日、子供たちにマイナスの言葉をぶつけていないだろうか?毎日毎日。「勉強しないと偏差値の高い学校に入れないぞ!」
こんな小さなマウント合戦にこだわっているのは一体誰なのか?本当に子供たちの幸せを思った優しい気持ち?それとも我々の貪欲なエゴ?
その目標達成のために毎日(プロセス)を犠牲にしていないだろうか?親も子も。もしかしたら1日の大半、嫌なことを言って過ごしていないだろうか?
人間は人に言われた言葉は忘れるかもしれないけど、それを言われた時の感情は決して忘れないものだ。マイナスの感情はマグマのように心の底でぐらぐら煮えたぎり噴出の時を待っている。
できることから始めよう。優しい言葉を探そう。気持ち良い言葉を使ってみよう。一日いちにちを大切に丁寧に過ごそう。これがラテン語のcarpe diem の意味である。「今という時を大切にせよ」
「類別詞」について
「類別詞」について
日本語話者には全く意識にのぼることがなく、外国語として日本語を勉強中の人には厄介な文法システムの一つに「類別詞」がある。
「類別詞」はアジア系の言語とアメリカ先住民の言語に現れることが多い。
日本語では、「〜個、〜人、〜枚、〜匹、〜羽…..」などが類別詞であるけれど、おそらく私たちはほとんど考えずに適当に使っている。
他の外国語の学習で「類別詞」に接して初めて自分達の言語の特性を意識する。
ここではタイ語を例に挙げ、個別に類別詞の用法をほんの少し眺めてみよう。
※タイ語は、全てカタカナで表記。実際の発音は極めて難しい。このカタカナをただ読んでもタイ人には通じません。
◯タイ語の類別詞
1) お菓子を数えるときには、「アン」という類別詞が使われる。
日本語:お菓子5個
タイ語:カノム・ハー・アン
(カノム=お菓子、ハー=5)
2) 人を数えるときには、「コン」が使われる。
日本語:3人
タイ語:サン・コン
(サン=3)
3) 回数を示すときは、「クラン」。
日本語:2回
タイ語:ソン・クラン
4) 動物や服を表すときは、「トゥア」
日本語:犬4匹
タイ語:マー・スィー・トゥア
(マー=犬、スィー=4)
5) 本を表すときには、「レム」
日本語:本6冊
タイ語:ナンスー・ホック・レム
(ナンスー=本、ホック=6)
ここまでは、日本語の類別詞とほぼ用法が同じであるが、日本語とは異なる使い方がタイ語にはある。
1)の「アン」を使って眺めてみよう。
a) 既に確認した使い方は、ものを数えるときの用法。
日本語:お菓子5個
タイ語:カノム・ハー・アン
b) 「この〜」など、対象を特定する用法。
日本語:このお菓子
タイ語:カノム・アン・ニー
(ニー=この)
c) 形容詞が名詞を修飾する場合
日本語:大きいお菓子
タイ語:カノム・アン・ヤイ
(ヤイ=大きい)
日本語の類別詞を眺めてみよう。
ものを数える時は、「ひとつ、ふたつ、みっつ」などの「-つ」が筆頭に挙げられるであろう。その場合に単語の形成が行われる一つ一つの構成要素を意識してみると面白いかもしれない。
ひとつ=ひと・つ
ふたつ=ふた・つ
みっつ=みっ・つ
今度は、類別詞「-り」を使って人間を数えてみよう。数字が増えると類別詞が変化する謎が垣間見える。
ひとり=ひと・り
ふたり=ふた・り
みっり=みっ・り???
さんり=さん・り???
さんにん=さん・にん
よにん =よ・にん
文法は慣用に基づくのが原則であり、必ずしも数学のように割り切れないのが面白い。
よく使う日本語の類別詞
1 「-つ」ひとつ、ふたつ
2「-リ」ひとり、ふたり
3「-きょく(曲)」いっきょく
4「-さつ(冊)」いっさつ
5「-こ(個)」いっこ
6「-そく(足)」いっそく
7「-けん(軒)」いっけん
8「-ひき(匹)」いっぴき
9「-じょう(錠)」いちじょう
10「-めい(名)」いちめい
日本語の類別詞は、まだまだ沢山ある。普段は使わないようなものもある。
たとえば、神話などの論考を読むと神や女神を数えるために使われる類別詞は「-はしら(柱)」である。
古事記に目を向ければ、「イザナギとイザナミの二柱の神が〜」というような表現に出会う。
英語の「類別詞」的表現
英語では「類別詞」のことをclassifierという。英語の中の「類別詞」的な表現は大体、以下のようなものになるであろう。
a sheet of paper
a slice of bread
a cup of coffee
a glass of water
a bottle of milk
a piece of furniture