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言葉と意識のピント合わせ
言葉と意識のピント合わせ
散々苦労して説明した挙句に、「一つ質問があるんですが、〜とは何でしょうか?」と今、説明したばかりのことを聞かれて唖然とした経験は、ある程度の人数の人を対象に教える仕事をしている人なら誰でもある。これは、ただ単に「あの生徒はきっとぼーっとしていたから」というぼーっとした理由では面白くない。
また逆に、先生側においては、自分は知ってると思っていることを生徒に質問されその問題を再認識し新しい発見をさせてくれた生徒に感謝することもあるであろう。ただし、普通は自分が分からない問題を質問されると先生は何故かすぐに怒ってしまう傾向があるものだが。
「人は見たいと思うものだけを見、聞きたいと思うものだけを聞く。」
目は開いていれば物が見えるし、耳は開いれば音が聞こえてくる。しかしながら、「ただ見えている、聞こえている」は、そのまま理解したことにはならない。意識のピントを合わせる必要があり、これが無ければ、本人不在で物事が右から左に流れていくだけである。
日本語で書かれている文章なら、そこに書き手の意図なり意味なりを即座に感じ取れるかもしれないが、同じ内容のものがアラビヤ文字またはデーヴァナーガリー文字(インド系)または、楔形文字(古代メソポタミア系)で書かれていたら、どうであろうか?
学習経験が無ければ、これらの文字は何かの模様にしか見えてこないであろう。まとまった意味ある文章が単なる模様と全く同じように認識されることになる。文字というものは氷山の一角であり、見えているものの下に意味が隠れている。
馴染みのない外国語の例は極端に響くかもしれないが、日本語で書かれたものから意味を感じ取ることも意識のピント合わせが必要で、これが無ければ、日本語で書かれた文字(漢字・ひらがな・カタカナ)もただの線の塊に過ぎない。
目で見る文字だけではなく、空間を飛び交う音としての言葉も、ピント合わせが無ければ、ただの雑音に過ぎない。
「人は見たいと思うものだけを見、聞きたいと思うものだけを聞く。」
書かれた言葉に意味を感じ取れるか、又はただの線の塊に認識されてしまうか、発せられた言葉に意味を感じ取れるか、又はただの雑音として処理されてしまうかは、私たち一人ひとりの意識のピント合わせ次第である。
道端に咲く小さな花にインスピレーションを感じ取る人もいれば、朝に鳴く小鳥の囀りに閃きを感じ取る人もいる。古い池の蛙にも意識は届く。
言葉から意味を感じ取れること自体、実はかなり特殊なことで、例えば知らない外国語のリスニングはどんなに頑張っても不可能である。知っているつもりの日本語も、意識のピント合わせが無ければ、つまり意識不在であれば、意味を感じ取ることができないと言える。
眠りたいのに眠れない時には、不得意な外国語の音声CDを聞くと良い。脳はたちまちシャットダウンし、すぐに眠れること間違いない。
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