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「名は体を表す」のか?
「名は体を表す」のか?
動物園でいつもぐだぐだしているあの「ナマケモノ」という動物が、もし急にてきぱきと働き出したら、その名称は「ハタラキモノ」に変わるだろうか、というようなことを澁澤龍彦がどこかに書いていたのだが、どの本なのかはさっぱり思い出せない。
先日、「練り歯磨き」という言葉を耳にした。「歯磨き粉」という言葉に敵対心を燃やした人の発言であろう。「歯磨き粉って言うけど、お前、粉のやつ使ってるのか?」という声が聞こえてくる。私も使ったことがないが、随分前は、歯を磨くためには粉を使ったのである。製品は進化し、今では粉のものは、ほぼ絶滅状態であり、チューブに入った液体と個体の中間状態(ペースト状)のものになった。それでもなお、人々は「歯磨き粉」の愛称を使っているようである。
子供の頃、初めてカップラーメンの「焼きそば」に出会った時には目眩がしたのを覚えている。しばらくは頭が混乱したのである。お湯を入れて3分待つだけ?一応フライパンは用意しておこう?焼かないのに焼きそばって?どっちなんだ、焼くのか?焼かないのか?しかしながら、まあまあ美味なその焼きそば味を堪能した後は、細かい悩みは忘れてしまった。
人の名前ではどうだろうか?全く学んでくれない「学(まなぶ)」君に「なぜ学ばないのか、君は人を騙しているのかね?」と説教を垂れる嫌な先生がいるかもしれない。
Agatha Christie(名前の意味は、「良きキリスト教徒」)が仏教徒になったらどうなるだろうか?
Amanda(名前の意味は「愛されるべき」)ちゃんが恋人に捨てられたら、何か間違っているような気がする。
「歯磨き粉」や、焼かない「焼きそば」や学んでくれない「学(まなぶ)」君
のような名称と実態の間にズレが生じている例は随分と身の回りにある。
因習に縛られている学校を覗いてみよう。緑色の板を指差し「黒板を見なさい!」と先生が言う。一人の生徒が、筆の入っていない「筆箱」からシャーペンを取り出し、国語の試験に出るらしい言葉をノートに写す。「早起きは三文の徳」。ふと彼は思う。「三文っていくらだ?」さらに、「隣の芝生は青い」。青い芝生とは何と珍しい!授業が終わると下駄の入っていない「下駄箱」から靴を引っ張り出し家路に急ぐのであった。すると悪友の一人が声をかけてくる。「おい、本物の縄で縄跳びしようぜ!」「嫌だね、縄跳びはビニールのやつに限るよ!」
私たちは物や事柄に名称を与え、それを理解したつもりになる。または、名称によって本質をくくりたがる。子供が成長するにつれ、着ている服が小さくなってくるように、本質が名称の枠をはみ出して来る場合もあるように見える。
エラノス学会で、鈴木大拙はティースプーンを手に取ると、隣の人にこう話しかけたそうである。
大拙:これは何ですか?
隣の人:スプーンです。
大拙:違います。これはスプーンと言われているものです。
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