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日本語入門(2)
日本語入門(2)
日本語の「〜は」とは何か?
「象は鼻が長い」という文で、主語はどの語なのか?
ある者は「象は」が主語であると言い、またある者は「鼻が」が主語だと主張し、さらに「象は」と「鼻が」の両方とも主語であると言い張る者もいる。
「俺はハンバーガーだ」
「いやいやハンバーガーは俺だぞ。お前はチーズバーガーだろ!チーズは好きじゃないんだ、俺は。」
日本語の「〜は」という言い方は、「主語」を表す表現なのだろうか?そもそも「主語」とは何か?上記のような日常的な表現は、ダメな日本語なのだろうか?
英語を学習し始めると日本語とのギャップに相当悩まされる時があり、どうしても日本語にこだわりが強い人は、英語が好きにはなれないという人も多い。
A「私は、生徒です。」
B「私は、ハンバーガーだ。」
C「花は、好きです。」
D「ポテトチップは、太るよ。」
E「玄米は、太らないよ。」
中学1年生の初めにAを学習する。当然、Aを基準にB〜Eを考えることになる。
日本語的な発想で上記の日本語をA基準に英語にすると、とんでもない英文ができてしまう。逆に、英語的発想に慣れると今度は日本語はあいまいであると言い始める人がいる。
状況依存に頼らずに、しかも機械的に「〜は」の問題を解決する一つの方法は、「〜は」を英語の「as far as A is concerned 」と捉えることである。これは、日本語にすると「Aに関して言えば」程度の意味。言葉や理論にするとややこしいが、私たちは直感的にこれを行っている。
「主語」の定義を「文法上、述語に対してそれが表す動作や状態などを表す動作主である語」とすると、日本語の「〜は」は必ずしも「主語」とは言えない。
いわゆる「文法」というものは、ラテン語と古典ギリシャ語の文法を基礎とし多少の修正を加えて各外国語に応用、発展してきたという経緯がある。
ところが、世界の言語は、どれもラテン語や古典ギリシャ語と同じような文法法則では説明できない言語も多々ある。それにも関わらず、日本では、なんでも欧米のものが「良い」と思われた時代があり、言語も例外ではなかった。
冗談ではなく本気で、日本語は「あいまい」だから廃止せよと唱える者もいる。
明治時代、初代文部大臣の森有礼のように日本語を廃止して、ハワイアンピジン語のような英語に置き換えようと考える者まで現れてきた。
志賀直哉も日本語は不完全で不備であるから文化の進展が阻害されていると主張しており、日本語を廃止してフランス語に置き換えるべしと述べた。
このような主張をする者は皆、かなり英語やフランス語が堪能な人たちであり、その「文法」に立って眺めると日本語がなんとも曖昧な言語に見えてくる。私たち一般人も少し英語が得意になると、日本語を貶し気味になる傾向がある。
前提が間違っているとすれば、根本の解決は不可能となる。一つの文法法則や一つの文法概念が世界の全ての言語に応用可能であると言う妄想、それが問題をより複雑にしている。
各外国語には、それぞれ独自のリズムや法則性があり、全ての言語に当てはまる法則性を見つけようとすると当然そこに「歪み」が噴出することになる。
ジョージ・スタイナーは言う。
「人間の言語は、その一つ一つが独自のやり方で、世界を異なった形に写しとる装置のようなものであり、その神秘的な力を生み出しているのが、他ならぬ文法である。」
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