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言語と文字の関係
言語と文字の関係
たとえば日本語を全てアルファベットで表記してみて、横書きにして本を出版してみる。電車の中でその本を読んでいると隣の人に声をかけられ
「英語ですか?」
「いや日本語ですよ。」
「は?」
日本ではアルファベットで表されていると、何でも英語に思われてしまう傾向がある。外国語と言えば英語が幅を利かせている。
注) ここでのアルファベットは、ラテン文字のことであり、すなわちローマ文字のことであり、一般にローマ字と言われている文字を指す。
日本で暮らし日本語基準で考えると、私たちは言語と文字の関係性に気づかないことが多く、言語と文字を同一のものとして勘違いしたままであったり、あるいは靄がかかっているようなことがある。
文が、ひらがな、カタカナ、漢字で表記されていたら、それは日本語であろう。
ハングル文字で表されていたら、それは朝鮮語(韓国語)であろう。
いわゆるローマ字で書かれていたら、それは英語であろうか?
ラテン語や英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語などは、多少のバリエーションを含むが、ローマ文字で書かれる。先にも触れた通り日本語も頑張ればローマ文字で表現できる。Ganbareba dekiru to omou. Demo yominikuidesu.
古代のメソポタミアでは、楔形文字を使って、シュメール語やアッカド語、またインド・ヨーロッパ語であるヒッタイト語が表された。
インドで使われているデーヴァナーガリー文字を使って、サンスクリット語やネパール語やヒンディー語が表される。
ペルシア語はインド・ヨーロッパ語であるが、現在のペルシア語はアラビア文字を使って表現されている。古代のペルシア語は楔形文字を用いて表現されていたし、中世ではパフラヴィー文字が使われていた。
言語と文字の関係は、たとえるなら音楽と楽譜の関係と同じである。先ず音があり、その音を楽譜に表現する。同様に先に音声としての言葉があり、それを文字の中に閉じ込める。
もちろん文字のない言語も存在する。天才的なミュージシャンで実は楽譜が読めない人も少なくない。楽譜の読み書きができなければ音楽を作ることができないなどいうことはなく、文字がなくても言語は使用される。ただし、次の世代に情報を伝えるのに困難な場合がある。
その昔、ハワイでは文字がなかった。神々への信仰心や様々な体験などを後世に伝えるための表現としてフラ(フラダンス)が広まり、それは今に至っている。
オーストラリアの先住民族であるアボリジニ達は文字を持たなかった。そこで、重要な事柄をアートに託して後世に伝えるという手段を用いた。一般にこれはアボリジナル・アートと言われている。アボリジニについては「ドリーミング」という面白い概念があるのでGoogle先生に聞いてみよう。
今でも文字のない言語は多数ある。だからといってその言語が劣っているということにはならない。楽譜が読めないミュージシャンがそれ故に劣っているとはならないように。
言葉は、まず音としての言語が先にあり、その後に入れ物である文字にそれが詰め込まれていった。
そういうわけで言葉の学習において私たちにとって第一に発音を徹底する必要性が見えてくる。自分が作ることのできない音は識別できるわけがなく、いつまで聞いてもリスニングは聞き取れない。
これは勉強ではなく音楽と同じでトレーニングが必要となる。ヘタで構わない、完璧である必要もない、しかし少なくとも私たちはその理想に向けた努力はしてみても良いだろう。
ずっと音楽を聴いていれば、いつの日か練習をしなくても楽器が弾けるようになると思ってる人は流石にいないであろう。
語学は、トレーニングという観点では体育やスポーツとも似ている。練習せずにじっとテレビで野球を見ていれば、いつの日か野球が上手くなるだろうか?
私たちに必要なのは、ただぼっーと講義を聞くことではなく自分をトレーニングで磨くことである。語学は、他の教科とは異なり、音楽や体育と同じカテゴリーに分類されなけれならない。理論とトレーニング。
盲目の詩人や琵琶法師が長い詩を暗唱し朗誦することはよく知られている。文字がある故に私たちの記憶力は劣化したのだと言う人もいる。しかしながら幸運にも文字を持つ私たちはこれを有益に使いたい。
音楽家は慣れれば楽譜を見るだけで頭の中で音楽を鳴らすことができるように、書かれた文字だけを見て私たちは小説や哲学、詩やエッセイを享受することができる。
まずは音、次に文字。その次に数学的な文法理論が必要になり、これが確固たる自信に繋がる。そして言葉は現象を切り取り、時代を超えて、それを表現することができるようになる。これが他の動物と人間を区別している。
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