Category
Archive
印欧語の右と左
2000年のセンター試験で、印欧語における右と左に関する次の英文が出題された。
The ancient Romans believed that the right side of the body was the good side, while the left side held evil spirits. Their word for “right”, dexter, gave us dexterous, which means “skillful”, whereas their word for “left”, sinister, means “evil” or “wicked”. This may have created negative attitudes toward left-handedness.
But today, left-handedness is becoming more and more acceptable in society, and even considered advantageous in some sports. Because of this, left-handed people do not have to feel “left out” any more.
古代ローマ人は、身体の右側は健全なる側であり、一方左側には悪霊が宿ると信じていた。「右」を表すローマ人の言葉dexterから、英語のdexterous(器用な)という単語ができている。これに対し、「左」を表すラテン語のsinisterは、英語においては「邪悪な」や「悪意のある」の意味である。*1)このような理由で、左利きの人に対して否定的な考えが生まれたのかもしれない。
しかし、今日では、左利きは次第に社会に受け入れられるようになってきている。さらに、いくつかのスポーツでは有利であるとさえ考えられている。そういうわけで、左利きの人はもはや*2)疎外感を感じる必要はない。
*1) 単純に考えると事態はその逆であろう。人類の大半が右利きであれば、当然、右利きは「多数派」となり、「多数派(右利き)」は「我々」であり、「我々」は「正しい」ことになり、「少数派(左利き)」の「彼ら」は、「異なもの」であり、「正しくない」すなわち「邪悪な」となり、その後、確立した負の固定観念は習慣化し、因習となり、迷信として残存することになったのであろう。
*2)最後の一文の”left out”は、動詞のleftと左のleftの掛け詞。
ひと月ほどインドを旅すると、身体の右(聖なる)と左(不浄な)を意識せざるを得なくなる。食事の際、インド人は右手のみを上手に使って食べることができる。左手は、右手との因果応報的な関係ゆえ、その呪われた宿命を食事という行為の対極の生理現象の対処にその職務を全うするために、つまり心身の不浄を水で洗い清める補佐役として、その時を黙して待つのである!
18世紀後半、イギリスのウィリアム・ジョーンズは古代インドのサンスクリット語がヨーロッパの言語であるラテン語や古典ギリシャ語と起源を同じくすることを指摘した。この理論上の言語は、印欧祖語(インド・ヨーロッパ祖語)と呼ばれる。ジョーンズとこの想定言語については、改めて考察することにし、まずは「右」=「正」と「左」=「邪」に関する英語の語彙を眺めてみよう。
センター試験の英語に話題として取り上げられていたように、ラテン語のdexter(右)とsinister(左)を語源とし、英語では、それぞれdexterous(器用な)とsinister(邪悪な)という単語が存在する。
フランス語のdroite(右;正しい)という語を源にし、adroit(器用な)という英単語が生まれる。同様に、フランス語のgauche(左;不器用な)は、ほぼ「不器用な」の意味の英単語として使われている。
英語のrightには「右」と「正しい」という意味があることは即座に思い浮かぶ。2013年3月に永眠された印欧比較言語学の泰斗Calvert Watkinsの辞書The American Heritage Dictionary of Indo-European Rootsによると、rightは印欧祖語のreg-(まっすぐ動く;導く;支配する)に源があるらしい。すると、ラテン語のrego(支配する)やrex(王)とも親戚関係ということになるであろう。このreg-の概念は英単語のregular(通常の)やrule(支配する)などに受け継がれている。
蛇足として、世界には、マヤ族のツェルタル語のように「右」や「左」という語彙そのものが存在しない言語体系があるそうである。右も左もないということは、空間の認識上の切り取り方が私たちのそれとは異なることを意味している。空間の把握方法が、人類共通のものではなかったというのは衝撃である。詳細は以下参照。『もし「右」や「左」がなかったら/言語人類学への招待』(井上京子 大修館書店)
« 前のページ 次のページ »